私がいないことに気づく




私がいないことに気づく

明けましておめでとうございます!

本年もよろしくお願いいたします!

と言うことで、ども、心のよろず屋とくさんです。

今年も変わらず色々と書いていきますね〜!

さて、新年一発目!

これまでも、私はいないということを何ども書いてますが、よくわからないという方がほとんどなんですよね。

それはそうなのですが、自分の身体や五感や感情、想いや思考といったもの全てが、私であると考えることが、そもそもの苦悩の始まりであり、その私にとっての、五感や感情、想いや思考は、私のものであると、それに対する親密さと臨場感を持ってしまうことで、さらにそれらの苦悩を強化し、手放せなくなります。

なので、私が〇〇、私の〇〇などの、みなさんが言うところの『私』と言うモノが、本当に存在しているのか?その主体となる私、その体や想いの所有者たる私は本当にいるのか?と言うところを見ていくのはいかがでしょうか?

私がいないのなら、その苦悩に親密さや強い臨場感を感じることはあまり想像出来ませんよね?

この手の話は、様々な覚者の方の本やブログなどでも見られますので、気になる方は調べてみるのも面白いと思います。

いずれ本の紹介などもしていきたいと思っています。

私を探してみる

例えば、ここに私の携帯電話があります。

この持ち主は私です。

私がいなくなっても、私の所有物である携帯電話はそこに残っていますよね?

逆に言うと、携帯電話がなくなっても、所有者である私はここに残ります。

と言うことは、私の身体や五感、感情や思考がなくなっても、私はここに残っているはずですよね?

同じように、自分の身体や五感、感情や思考の所有者、その全ての行為者となる私を探してみましょう。

携帯電話と同じで、これらが私の一部であるならば、そこにはそれらの持ち主である私が残っているはずですよね?

よく探してみましょう。

私とはそもそもどこにいるのでしょうか?

それは物体ですか?

それとも魂ですか?

それはどこにいますか?

胸のあたりでしょうか?

それとも頭のあたり?

では、私がここにいると言うところを指差してみましょう。

どこを指差しても構いません。

では、質問です。

その指を差したところに私がいると言っている私は何者でしょうか?

私が胸にいると指差した人は、私が胸にいるのに、それを指差していると言うことは、私が二人いないと私がここにいるとは言えませんよね?

つまり、この場合は私は胸のあたりにいると言っている私と、胸にいる私と、私が同時に二人存在していると言うことになります。

こうやって自分の身体や五感、感情や思考をじっくり内観していくと、私がどこにも見つからないことがわかると思います。

この質問に対して、『私はここにいました!』と言う人を見たことがありません(笑)

そう考えると、心や精神や身体、想いや思考、感情や感覚、それらの全てが、私と言う主体なしに、現れていると言うことになりますよね?

つまり、それらの体験は持ち主が存在せずに、別々に現れては消えていると言うことなんです。

そう考えると、今とっても辛い苦悩を抱えている『私』が、実はどこにもいないなんて、ちょっと拍子抜けしちゃう方もいらっしゃるのではないでしょうか?

もちろん、心の働きはそんなに簡単じゃないので、これがすぐに理解できて、苦悩がなくなるなんてことはないです。

でも、自分自身の苦悩と向き合う時に、こう言った下準備的な理解があると、いたずらに感情を刺激されることが少なくなるので、僕はオススメしています。

私がいないと気づく

さて、ここまで来ると『私』と思っていた存在は、どこにもいないことが理解出来ますよね?

この肉体も五感も、感情や想いや思考も、全ては現れては消えていくだけのものであり、その所有者、行為者たる『私』は何処にもいません。

でも、明らかに私と思われる存在がいることにちょっと戸惑いますよね?

では、なぜそのように感じてしまうのかを考えてみましょう。

例えば、みなさんには五感と想いや思考があると思いますが、それらをひとつずつ消えたと仮定してこの文章を読んでみてください。

では、まず視覚が無くなったとします。

すると、当然目が見えない状態ではありますが、耳も聞こえるし、物の味も体の感覚も残っていますよね?

では、次に味覚が無くなったとしましょう。

食べ物の味がわからなくなりますよね?

そして、次は嗅覚が無くなったとします。

続いて匂いを感じなくなりますよね?

では、触覚が無くなったらどうでしょう?

耳が聞こえることと、思考や想いを巡らせること以外は何も感じなくなりますよね?

触覚がないから、身体の位置情報も全く分からなくなりますので、何処にいて何をしているのかも想像するしか出来ません。

では、聴覚が無くなったらどうでしょう?

これで身体から感じる感覚全てがなくなりますよね?

この五感が無くなった後には何が残るのか…

想像してみてください。

はい、思考と想いなどがまだ残っていますね?

感覚はなくなっていますが、考えたり思ったりすることは出来ます。

では、それらの思考や想いが無くなったらどうなりますか?

何も感じませんし、何も想いを巡らせませんよね?

つまり無になります。

ただし、感じたり思ったりすることは出来ませんが、命だけはそこにあります。

これは想像の域を出ませんが、個人的な理解としての死とは、僕はこう言うことだと思っています。

死というものは、五感と思考や想いを体験出来ない状態なんじゃなかろうか?

なので、命だけがただ在ると言うような状態に戻ると言うことかな〜?と。

まぁ、この話は置いといて、五感や思考や想いがなくなると、何もなくなるのはお分りいただけますよね?

では、この状態の時に、聴覚だけ感じられるようになったらどうでしょうか?

なんの音かの理解は思考がないので出来ませんが、音を聞く体験はしていますよね?

赤ちゃんなんかはこんな感じですが、つまり、音がなっていると言うことを体験していることに『気づいている』と言うことです。

ここがキモなんですが、僕たちはこの気づいている意識の方なんですよね。

ですが、人間は思考(マインド)が他の動物と比べてとても発達しているので、この気づきと身体や五感、感情や想いその全てを、私と言う個人が体験していると、生きていく中の体験を通して理解してしまいます。

これが世界からの分離であり、ワンネスからの分離です。

そして、この分離感があることであらゆることを感じたり体験出来るとともに、楽しいことばかりでなく、苦悩も体験することになります。

陰と陽、快と不快、善と悪、光と闇などなど、これらは分離しないと体験できないことですが、この私と世界という分離した感覚が、二元性の世界の始まりなんですね。

面白いことに、まだ小さな子供はこれを感じていません。

でも、繰り返し人類の集合意識(社会や家族など)から教育を受けたり、様々な体験を通していく中で、私と世界という二元性の世界観を作り上げてしまうんですね。

もともとワンネスである私たちが生まれ、成長していく中で分離して、また統合されていく…

本当に興味深くて、この意味を深く考えてしまいますが、これはそう言うものだと、ミステリーのままにしておきましょう(笑)

気づきの意識に寄り添う

さて、繰り返しになりますが、「気づきの意識」は、「ワンネス」や「今ここ」などとも言う方もいらっしゃいますが、この常に存在している『気づいている意識』が、思考や五感などと親密になってしまうことで、皆さんの普段感じている『私』と言うもの、つまり、自我と言われるような『私』がいるように感じてしまいます。

ですから、思考がない状態で何かを感じたら、感じたと言う体験をして、それに気づいていますが、思考による条件付けがないので、それはただ起こっているだけとしか感じません。

人間は高度な知性(マインド)のおかげで、思考がこの感覚や感情、想いや肉体などを、気づきを通して『私』として認識してしまうため、私がいないと言うことを理解することはそもそも困難ですし、あらゆる体験が、『私』と言う個体として、世界から分離した存在として認識することから逃れられません。

では、どうしたらこの気づいている意識に寄り添えるのでしょうか?

たくさんの瞑想や祈りの方法がありますが、それもとても助けになると思います。

また、奇跡講座やダイレクトパスなどといった書籍を読むと、その方法が書かれていますので、ご参考になるかと思います。

僕のお勧めする方法は、静かな状態で、五感、つまり感覚を感じることに集中してみることですね。

何かを感じているだけにしておく。

感じなければそのまま静寂に寄り添う。

そして、思考や思いが湧いてきても放っておきます。

思考や想いは現在、過去、未来を行き来しますが、感覚は今ここにしか存在しません。

そして、今ここの静寂に寄り添うことが、気づきの意識に寄り添うことでもあります。

そうしている間に、自分の中にとっても広い静寂なスペースが現れることに気づくと思います。

これも瞑想の一種ですが、いつでもどこでも出来るので試してみてくださいね!

さて、ここから続きがまだまだあるのですが、ちょっと長くなってきたのでまたにしますね!

気づきの意識が全てではありません。

ここから本当の私に気づかなければいけませんので(笑)

と言うことで、今回は私がいないことに気づくでした!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です