『それ』と言うもの
〜マインドの目覚め〜

ども、心のよろず屋とくさんです!
ホームページを新設して初めてのブログになります。
今回はメンタルケアのお話ではなく、一般的な悟り、覚醒、目覚め、などと言われているものについて書いてみますね。
悟りってなに?
個人的には、この『悟り』と言う言葉があんまりにも神聖化しすぎていて、ちょっと語弊が出てきているような感があります。
悟りって何か?と言葉で説明するのは、様々な覚者のみなさんが今までそうであるように、時と場合、伝える人の状況によっても言葉が変わりますし、言葉自体が抽象度が低いので、『それ』を表現することが出来ません。
ですが、ここでは可能な限り解説してみたいと思いますね。
そして、今後も様々な角度から、『それ』をお伝えできればと思っています。
よく聞く単語としては、
悟り・空・私は在る・覚醒・目覚め・解脱・それ・ワンネス・非二元・真我・今ここ・などなど聞いたことがあるのではないでしょうか?
簡単に言うと、悟りとか目覚めと言われているものと言うのは、自我の視点から、真我の視点に視座が転換することです。
自我とは、五感、つまり感覚と感情と思考の全てが、実は現れては消えるものだと腑に落ちて、自分と言うものが実は存在していないと言うこと。
そして、その感覚や感情、思考のあらゆるものに『気づいている意識』『体験しているもの』、つまり『真我』が私たちの本質であると腑に落ちて理解することです。
ですから、この状態になると、私は存在せず、ただ私は在ると表現する方もいます。
悟りに至るプロセスは、それこそ人の数ほどありますが、多少似通った部分はあるかもしれませんね。
自分のことを知っていく
悟ると、聖人君子になれるとか、苦悩から解放される、何か特別な力は身につくとか、ハイヤーセルフと繋がれる、人生が好転する、ビジネスで成功するなどなど、そう言った希望を持っている方には残念なお知らせですが、こう言った考えは、おそらく悟りから最も遠ざかる思考と言えるかもしれません。
なぜなら、この様な思考は『自我』をより強固にし、私と言うアイデンティティーを手放せなくなるからです。
そもそも、皆さんが悟っていなかった瞬間など今までの一度もないんですけどね。
真理を見ることが出来るメガネをつけているのに、メガネはどこ?と探しているようなものなんですね。
ですから、アントニー・デメロさんの言葉にもあるように、『悟る前に鬱、悟った後も鬱』の言葉通り、何にも変わることはありません。
決定的に変わるのは、自我から真我への視座の転換のみです。
悟っているのに鬱なの?と驚かれるかもしれませんが、そもそも、悟りとかワンネスと言う状態では、平和で幸福で愛に溢れているので、鬱の自分さえも許し愛しています。
それに対してジャッジをしないので、他人からどう見えたとしても、鬱な自分も平安そのものなのですね。
例えば、良い人が悟っているとは限らないし、嫌な人が悟ってないとは限らないのです。
そして、こう言った悟った状態になるには、どうしても自分を知っていく必要があります。
なぜかと言うと、人は生きている間に様々な自分への条件付けをしてしまいます。
条件付けをすると言うことは、そこには私は〇〇だ!と言うような、私と言うアイデンティティーを保とうとする自我が同時に存在しているからです。
自我が本当は私なんていないんだとうことを理解するには、まずは自分のことを知って行き、自分に対しての様々な条件付けを知り、時にはトラウマを手放し、純粋な自分の反応を見ていく必要があります。
人生をドラマティックに生きたい方にとっては、悟りなんて必要ないので、生きづらいと感じる場面で、こう言った自分へのネガティブな条件付けやトラウマを解消するだけで良いと思います。
でも、悟りを求めるのであれば、ここからさらに自分を深く知っていく必要があるんですね。
これは人によってはとても苦しいプロセスになるかもしれません。
悟りの一瞥体験
僕の話をしましょうね。
僕は2017年11月に、悟りの一瞥体験というものを経験しました。
きっかけは、指圧治療の最中に、たまたまカウンセリングみたいにお話をする方が続いて、その中で、以前心の個人セッションを受けた方と同じような、ネガティブな条件付けを持っている方がいらっしゃったんですね。
それも数人続いたので、珍しいこともあるもんだと思っていたのですが、その瞬間気づいたんです。
この方々の苦悩はそのまま僕の苦悩でもあるんだと。
僕はクライアントさまの問題を解消すると同時に、自分自身の苦悩も教えてもらっているんだなと強く実感したんですね。
その瞬間、あぁ〜世界はなんて完璧に出来ているんだろう。
自分も自分以外の世界も、全て繋がっていて一つなんだな〜と理解したんです。
それから2〜3日続いたその感覚は、とっても穏やかで平安で、愛に溢れていて、全てが許されているんだと実感しました。
菩薩が微笑んでいる意味がわかるくらい、全てのものが自分だと感じ、愛おしくて、微笑ましいと感じました。
でも、その後はまたいつも通りの感覚に戻ってしまって、それからのプロセスは、僕にとって地獄のような虚無感と向かい合う日々でした。
悟りの一瞥体験をした方にはとても多いこの現象ですが、のちに理由がわかりました。
虚無感
人は基本的な恐れを持って生まれてきます。
それは、自分の生命の死に対しての恐れと、自分の価値の死に対する恐れです。
生命の死は、肉体的なものですね。
自己価値の死は、思考的なものです。
一越体験をした後に、さらに内観を進めて行くと、あることに気づいたんですね。
自分と思っていた、この肉体も五感も感情も思考も、実は現れては消えて行くだけのものでしかなく、自分なんていなかったんだと。
そして、よく聞くお話ですが、僕らは魂の存在で、その成長のために生まれてきたというスピリチュアルな世界観もぶっ飛び、それがただの思考の生んだストーリーだと気づいた時、自分の生きる意味ってなんなんだろう?と疑問が湧きました。
そして、自分がいないのなら、この世界で生きる意味なんてないし、自分にはなんの価値もないんじゃないか?
そう思えたんですね。
つまり、僕は自分の価値の死に耐えられるだけの自我(この場合は精神の強さ)の強さがなく、ただ生きているだけのなんの価値もない存在でしかない、という虚無感に1年近く苛まれました。
本当に最近まではこの虚無感と向かい合っていたんですが、これも自分のコアなビリーフであるトラウマを見つけたときに、ようやく解放されました。
僕は父が大分前に亡くなっているのですが、父とのトラウマに自分の価値を否定するものが含まれていたのが原因だったんですね。
つまり、自分には生きている価値がないと言うトラウマが、自分がいないと言う現実に耐えられずに、虚無感を抱いていたんですね。
ある方のお話で、自我が弱い状態で、ワンネスのような無限大の世界観に触れてしまうと、あっという間に魔境に入ってしまうんですよ、と。
これを聞いて本当に納得したのですが、もし僕にもっと自信がなく、自己肯定感が低ければ、人によっては自殺するんじゃないかと言うレベルの虚無感だったんですよね。
実際そう言う方もいると聞きます。
功をそうしたのは、僕が虚無感で悩むことよりも、真理を探求する意思が強かったことと、身体を鍛えていたことで精神も強く保てたことが、切り抜けられた要因かなと思ってます。
鍛えててよかった(苦笑)
これ以後は、なるべくその時々に感じた感情や感覚を、ただ感じるに任せて、思考に左右されないように気をつけていました。
しばらく続けていると、段々とワンネス側、気づきの意識に寄り添うことが出来るようになり、徐々に自我の視点から真我の視点に切り替わってくるのを感じました。
気づきの意識に寄り添う
僕にはまだ自我があるので、様々な場面で喜怒哀楽の感情が出てきますが、その都度、それに気づいている自分に寄り添うようにしています。
そうすると、感情はその時湧いても勝手に消えていくものなので、自分だと思っている思考さえも、現れては消えていくものだと腑に落ちてきます。
そうすると、今ここに寛ぐ事が出来るようになり、徐々に平安で幸福な感覚が増してきます。
実は、この状態よりもまだ先の気づきがある様なのですが、僕にわかるのはここまでです。
この先のことは、また僕の真我探究が進んできたらお話しようと思っています。
ちなみに、これは僕の周りでもよく見る状態なのですが…
このプロセスで大きな山場があって、自我、つまり、私はいないと気付く過程で、そこで自我(精神)が弱いと、私と言うものを維持するために、あらゆる意味を探します。
多いのは、スピリチュアルな世界観に自分を明け渡してしまうことでしょうか?
無いものは出来ないのですが、思考は自己のアイデンティティーを保つためには、幾らでもストーリーを作り出します。
私(自我)が存在しないのが非二元の教えなのですが、自我を手放せずにいると、途中でそっちの道に入ってしまうのが個人的には別れ道の様な気がしています。
スピリチュアルな世界観を否定しているわけではないですし、僕自身もそう言ったお話は大好きですよ(笑)
ただ、悟りを目指すのであれば、そこで踏みとどまって、ただ在ってみる。
ストーリーを奏でる思考を静めてただ見てみる。
今ここの静寂を感じてみる。
と言うのをお勧めします。
すると、今ここの静寂と平安を徐々に感じられる様になると思いますよ。
そこには時間も空間もなく、ただ静寂と平安と幸福、愛で溢れていて、私たちは全て許されていてなんの不安も存在しないことが腑に落ちる様になると思います。
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